【思い出】高校球児が美術の道に進むまで 前編

こんにちは、雨本です。
今日は『野球と暮らす ギフト』に必要な最後の1品を揃えるために、いろんなメーカーに電話やメールで連絡を取っていました。
まだまだ調整することはたくさんですが、なんとなく展示の輪郭が見えてきた気がします。

今日のブログでは、少し自分のことを振り返りたいと思います。

高校野球引退。さて、どうするか?

18歳の頃のお話。
高校生まで、プレーヤーとして野球に触れていました。
岐阜の県立進学校の野球部でしたが、目標はあくまで甲子園。勉強第一の校風で少ない練習時間を強いられる中、頭を使って効率よく練習しろという方針のチームでした。

↑画像は高2の夏、岐阜放送で放映された映像のキャプチャ。長良川球場でやる試合はテレビ中継があったのです

……でも、高3最後の夏はあっさり初戦敗退。
それまで必死にやってきたつもりでしたが、終わった瞬間魔法が解けたように「結果的には質も量も足りていなかったから負けたんだな」とやけに納得しました。
負けた悔しさよりもキツイ練習や食トレ(朝食に米500gとか)から開放されることの方が大きかったのかも。
(とはいえしばらくして、もっとやりたかった、なんでもっと練習しなかったんだろう、と週3で野球の夢を見ることに……。)

周りのみんなはすっかり大学受験モード。
引退してから真剣に進路を考え始めました。

美術への道、「野球と同じくらい絵を描くのが好き」と父を説得

絵やマンガを描くのは好きでした。
もっと言えばこれは一生やっていくことなんだろうなと物心ついた頃から思っていました。
口に出したことはなかったですが。

一生やるならば、大学でとことん突き詰めたいな、と考えました。

父はふつーのサラリーマンで、美術とは無縁の人でしたから、僕の美大受験には反対しました。
その父を納得させた言葉が、「野球と同じくらい絵を描くのが好き」。

少年野球の監督を務めていた父は、僕がいかに野球が好きかをずっと見てきていました。
「そうか、野球と同じ。そんなにか」
そう、ぽつりとつぶやいた声を今でも覚えています。

こうして説得に成功した僕は、美大に進む……

 

ことはなかったw

 

 

というのも、18歳当時の僕なりの戦略?があってのこと。
この続きはまたそのうち、です。

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